■たわごとですかーっ!!■



▼【よみがえってもらっても】03/03/26

「黄泉がえり」
いま話題の映画である。
「黄泉がえり」と書いて、「よみがえり」と読むらしいのだが、迂闊にも、温泉がえりと読んでしまったのはオレだけではないはずだ。
その読み違いは、映画自体の主旨を根底から無視した暴挙とも言えるだろう。温泉と聞いただけで、なにかしら”のほほん”とした雰囲気になってしまうからだ。
しかし、この映画はけっして”のほほん”とした映画ではない。

「黄泉(よみ)がえり」
死んだ人間がいきなり生き返ってしまうのである。
その状況を想像してみて欲しい。
よみがえりと聞いて、まず思いつくことはなんだろうか。
墓場だろう。墓場と聞いただけでなんとも不気味な雰囲気をかもし出すし、思わず手を合わせてしまいかねないのだ。
そこから次々と現れ出てくるのは、そう、ミイラだ。あの包帯ぐるぐる巻きのお馴染みのやつだ。なんとも、おどろおどろしい。これぞまさに、よみがえりではないか。
よみがえり違いだよ、それ。
その、「よみがえり」は、字で書けば「蘇り」とか「甦り」なのだろう。そもそもこの映画はホラー映画ではない。とんだ勘違いである。

この映画で言う、よみがえりとは、死んだ人間が愛された人の前に現れる、そんなロマンチックなよみがえりなのだ。
しかしながら、いくら愛する人がよみがえるからって、ミイラのままよみがえるのはいかがなものか。
ミイラが言うのだ。
「帰って来ましたよ、あなたのもとに…」
そんなものいきなり目の前に現れても見なさい。手に負えないどころの話しではない。ただただ、「ごめんなさい」と謝るしかないじゃないか。これのどこがロマンチックなんだ。
そもそも、日本の話なのか、それ。
しかし安心して欲しい。この「よみがえり」は元の姿のまま現れるのである。
そして愛し愛された者の前によみがえり現れるのだ。
これほど喜ぶべきことはないだろう。

しかし、ここで問題が生じる。それは、時の流れに起因する問題である。
確かにその当時は愛し愛されていたかも知れない。しかし、その人を取りまく状況は次第に変わってきているのである。そのことを無視して考える分けにはいかないだろう。

例えば、猿だ。平たく言えば、エテ公である。
その昔、ペットとして猿を飼っていた人がいたとしよう。
それはそれはかなりの可愛がり様であり、いつも肩にはその猿を乗せて外出する始末である。まるで、マルコのアメディオ気取りじゃないか。
しかし、不意の病により、その猿は天国に召されてしまった。その悲しみは相当なものだったに違いない。
だが、その悲しみは時間が経つにつれ、いつしか癒える。
そして、いま、ペットとして飼っているのは犬である。
元来、動物好きなその人は、犬もまた溺愛するがごとく可愛がっていた。
肩に乗せることはしなかったけどね。

ところが、ここで予想外の展開が待っていた。
「よみがえり」である。
よみがえったのは、そう、あの猿である。

あの頃、可愛がっていたのは確かだ。可愛がってはいたが、いまよみがえられては、ほとほと困るのではないか。
なぜならば、いま可愛がっているのは、犬だからだ。
そんなときに、猿がよみがえり、目の前に現れてもみなさい。
なにしろ、犬と猿である。その修羅場は火を見るより明かだろう。

まだ、この程度ならいいのかも知れない。これ以上に困る人がいる。
ムツゴロウさんだ。
とにかく動物の数が普通ではない。
しかも、ムツゴロウさんの動物の可愛がり様は知っての通りである。
あの百獣の王ライオンでさえ、ムツゴロウさんに掛かればただのペットに過ぎない。
それにしたって、ライオンにほおずりはないじゃないか。
なにしろそれが全部よみがえるのだ。

手に負えないほどの数の動物たち。見渡すほどの数である。すでに名前も忘れてしまった動物もいる。もう、何がなんだかわからない。
そんなとき、ムツゴロウさんはこう言うだろう。
「いらないよ、こんなに」
ムツゴロウさんを持ってしても、つい本音を漏らしてしまうのだ。
これが「よみがえり」の恐ろしさである。

このことから言えること、それは、よみがえりによる喜びは、時と場合によると言うことだ。
ただ一点、気になることは、どこにも動物がよみがえるなんてこと言ってないんじゃないか、この映画。

そんなことより、差し当たって「よみがえり」よりも「若がえり」の方がいいよ。

byクムラ〜


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